文化強化月間(4)

文化強化月間

粧っていた山も眠りにつき始める今日この頃、日没はどんどんと早くなり、夜は長さを増しております。

ということで、ちょうど知己の関わる舞台が続くのでせっかくだからそれ以外も加えて色々見てインプットしようという月間でした。

11月最終週から今日までのおよそ20日間で4つの舞台を見てまいりました。その感想をつらつらと書いていこうと思います。

(ここまでコピペテンプレ)

ミュージカルサークルS&D 「おどり村と妖の森」

オペラ、オペラ、劇とお届けした文化強化月間、最後を飾るのはミュージカルです。

ミュージカルという物自体観るのが相当久しぶりで、記憶が正しければ小学生か中学生で劇団四季の人間になりたがった猫でしたっけ、あれ観たのが最後のような気がします。宝塚ならちょくちょく観てたのですが、なんかあれはミュージカルと呼んでいいんだろうか、よくわからん。

さて、千秋楽こそ終わっていますが、今後も公演で使われるかもですし、あまり中身に直接触れることはしないでおきましょう。

とある村に 神を宿す巫女の血を引く娘が生まれる。15歳のお祭りの日、その体に神を宿すべく舞の稽古を重ね…遂にその年がやってきた。彼女は祭り当日〈妖の森〉へ行き、神を宿す儀式をしなくてはならない。踏み入るのを禁じられ、妖が住むといわれている森で…。  巫女の娘・ウズメは舞の稽古で出会った天真爛漫な少女・ヒコと、村はずれに住む少年・イズナと意気投合し、彼らは揃って〈妖の森〉へ足を踏み入れる……。 人間も、妖も、神さまだって、みんな歌って踊りだす。 日本の歌と踊りのはじまりを考える、国産ファンタジー・ミュージカル。

(カンフェティ公式ページ、公演内容。アクセス: 11, Dec., 2023)

アマノ役の方からお誘いいただいて観てきたわけなんですが。「踊り」に巫女の「ウズメ」ときたらまぁ思い浮かべるものは一つでしょう。巫女による神降ろし、禁足地、"村はずれ"というわけでまぁそういうストーリーになるのかなと駅に降り立ちました。

さて、ミュージカルサークルS&Dはサークルという名の通り、学生さんたちによるミュージカルの実演芸術団体になります。私は普段クラシック音楽系の裏方にいるのですが、正直レベルの高さに驚きました。最後のスタッフロールを観る限り、安全上問題のない所に関しては裏方も学生さんが主体となっていそう。音楽がミュージカルでは録音であることをつい最近知ったのですがあのキューや、大道具の移動、照明、大変だったと思います。というかあの音楽のキューだし私絶対ミスるからやりたくないです。近い分野の実演芸術で裏方をやっているものとして、まずはそうした演出制作のスタッフの皆さん、当日受付などで案内をしていた皆さんに惜しみない拍手を送ります。

ミュージカルそのものについて。

願わくば此れを語りて平地人を戦慄せしめよ

まずこれが思い浮かびましたね。唯一の違いは柳田がこの件で蒐集したもののほとんどが口伝であることくらいでしょうか。裏方やっててそういう目でつい舞台を観てしまうのですが、はじめの語りが終わり、中程にたれていた幕が一気に開くとまぁ奥行きがかなりある。間口と同じくらいはありそうで、色々工夫ができる分、難しい箱と感じました。ですが、場面に合わせて巧みにその位置と様相を変えるあの壁は良かったですね。スタッフと時間とお金と保管場所が潤沢にあるならもっと色々できますがそれができる箱は日本だと新国とかくらいでしょう。

巫女の少女ウズメによる舞の稽古がはじまり、本格的におどり村と妖の森という伝承が語られていきます。流れとしては里神楽と呼ばれる系統に属するのでしょうか。ただ、巫女や舞の師匠であるアマノがある程度しっかりした着物を身につける一方で村の子どもたちが木綿のような着物をまとっているということからはある程度の社会階層が伺えます。男女の着物、丈以外にも色々違うところがありますが、ちくちくとリメイクされたとブログの方で拝見しました。あれだけ動くからには着付けもしっかりしとかないとでしょうし、衣装班の苦労が忍ばれます。

物語の中身に最低限しか触れない縛りで書くとなかなか苦労しますが、1幕が終わった頃にあれ?と一つの違和感を覚えます。村人と妖で男女比が明らかに異なるような気がする。パンフレットに地図があったので見てみると妖の森の奥には山がある。大きく異なる習俗、厳密に定められているらしい"境界"、そして村境とイズナの家の位置関係。一読者の解釈にとどまりますが、本当に日本における"おどり"の初期段階と言っていいようです。

日本最古の踊りといえばそう、日本書紀に記述される天の岩戸隠れにおけるアメノウズメノミコトによる舞です。天照大神が隠れた岩戸の前にある木に鏡を釣り、にぎやかな音楽に合わせてアメノウズメノミコトが踊って大神を岩戸からおびき出したあれですね。その時天照大神の御姿を写した鏡がヤタノカガミとして伝わります。

そしてこの神話で登場する天に坐す天津神と、その後の神武東征伝承を始めとする神話伝承で調伏される土着の国津神やそれを崇める末路わぬ民。稀人伝承というのは洋の東西を問わずしばしば見られる伝承ですが、こうした民話の骨格をもとにきれいに現代を生きる私達が受け入れやすいミュージカルに仕立てたと言った所なのでしょうか。

ちょっとここから内容にも触れます。配信等で見たい方はブラウザバック推奨

村の名前の五十鈴といえば奈良県にある芸事の神として有名な弁天様を祀る天河大辨財天社です。この五十鈴はアメノウズメノミコトが舞ったときに使ったとされるものと同様のものと伝えられています。 雅楽でもしばしば鳴らされ、神聖なものを表す印としても使いやすい鈴ですが、実は西洋のキリスト教でも鈴みたいなものが使われます。パンとワインがキリストの御体と御血にかわるとき(聖変化)に鳴らされます。卑近な例ではあれも神聖とまでは行かないですけど特別ななにかの印になるんでしょうか、「上様の、おなぁり〜」ってやつ。

ウズメの声の出し方でも十二分にわかるものでしたがあの鈴の音はわかりやすい象徴でしたね。いがみ合うまでは行かずとも隣に、すぐ近くに住まいながら交渉を断っていた人と妖がおどりという儀式を通して和解し、それまでの過ちや、過去が一度リセットされます。ある意味、古いものがすべて流されて新しくなったみたいなことなのかもしれません。

そもそも村はずれで捨て置かれている兄弟が祭りだからと呼ばれていることがその祭りの特別性を物語っています。村八分とはある2つの時を除いて、入会集団であるムラから追放する措置を指しました。その2つのときとは、家のみならず生存に必要な実りをもたらす森にあだなす火事と、病やケガレなどの関わる葬式です。祭りには本来参加できないはずなのです。大人たちの考えは中盤にかけて明らかになりましたが、そういうことでした。

最後にはすべてが解決して村に伝わる踊りの謂れとして昇華されます。しかし、はじめと違ってそれを語る子孫の姿はなく、利き手であったはずの旅人の独白で幕は閉じられます。「書かれなかったことはなかった」と言った老博士は粘土板に押しつぶされて圧死しました。記録されることは、記録すべきとされたことであることがほとんどです。数年前、江戸時代の習俗についてかんたんに調べる機会がありましたが、書かれたこととあったことは簡単にイコールでは結べません。もしかすると、水の祟というのは似たような大きな事件の隠喩かもしれないし、逆にこの記録は洪水の記録なのかもしれない。観客であり四枚目の壁の向こうから眺める私達はそういうことを考えることができます。それが作者の想定であろうとなかろうと。

ともあれ、こうした解釈の余地を持つ作品はいいものです。自分勝手な憶測の域こそ出ませんが、少なくともあの音楽と踊から何かを受け取れたことだけは確かです。この作品を生み出した方々、そして舞台の上でその世界を見事に演じ切られた演者の皆様にBraviと拍手を送って感想とさせていただきます。

鐘花文庫拝