聞いてきました

ステファン・ポップ

4月18日、サントリーホール大ホールにて。

いろいろなものが限界を迎えるとおいしいケーキを買いに行ったり、チケットを増やしたりするのですが今回はこうなりました。

パヴァロッティの再来といわれているそうで、渡邊さん指揮の東京フィルによる運命の力序曲を楽しみながらどんな何だろうとわくわくしていました。

ところでサントリーホールの入り口で開場の時に流れるパイプオルゴール。あの鳴り始め、エトワールの一幕フィナーレっぽくないですか?気のせい?

www.youtube.com

気のせいでした。

(4/25追記)

1フィナじゃなくて間奏曲のほうでした

www.youtube.com

(追記ここまで)

女心の歌や蝶々夫人の二重唱を聞いて、確かにパヴァロッティの再来といわれるなと納得しました。彼そのものでは当然ないんですが、細かい抑揚とか、身振りとかがどこかパヴァロッティを彷彿とさせる感じでした。違いを挙げるとすればパヴァロッティのほうが力強く、ポップはもっと繊細な印象を受けました。どっちもすき。

再びオケでカヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲。これにAve Mariaと歌詞をつけたものをかつて合唱で歌ったことがあるので懐かしいなぁと聞いていました。普通のAve Mariaはご存じの通りGratia prena dominus tecum benedicta tu...と続いていきますがこちらはAve Maria madre Santa...となる別バージョン。

In preda al duol, non mi lasciar, o madre mia, pietà!

悲しみにとらわれたままにしないでください、あぁ母よいつくしみを

とでも訳すんでしょうか。最後はnon mi lasciar!で終わるのきれいでいいですよね。

とまぁ今回はなかった歌の話は置いといて続き。

プッチーニのLa Bohème一幕最後。Che gelida manina、Si, mi chiamano Mimi、Osoave fanciullaと続けてだったのでてっきり流して演奏すると思ったのですが分けてましたね。La Bohèmeは初めて乗ったオペラなので少し思い入れがあります。またどこかでやらないかな。

休憩をはさんでロッシーニのLa danza。なんか中毒性ある曲でこの後電車の中でずっと聞いてます。なんなら誰もいない実験室で鼻歌歌ってます。セビリヤの理髪師の序曲、マッティナータ、カタリ・カタリ、帰れソレントへ。音楽の授業で帰れソレントへは歌いましたけど自分のひどさを思い出して改めて合唱で乗ることはもうないかもなぁなどと思いながら拍手していました。比較対象がやばすぎる。

さてそしてプッチーニ最後の傑作トゥーランドット。Signore, ascolta!はあまりこれだけ抜き出される印象がない気がします。次のやつが強すぎるだけとも言います。Nessun dorma!

これを書いているの夜23時なんですが、まだ眠れないようです。

Il nome suo nessun saprà ... E noi dovrem, ahimè! Morir! Morir!

これ実はカラオケ入ってるので(DAMかJoyか忘れた)ぜひ歌ってみてください。高くて出ないから。

これはもう拍手止まらないですよね。日本で特に有名な曲ですし。

アンコールにこたえていろいろ歌ってもらえたのですが、印象に残っているのはヴェルディ椿姫よりLibiamo。本邦では「乾杯の歌」として知られています。

前奏のあいだからポップ氏の誘導で手拍子が始まるわけですが、この曲、前奏が終わって歌が始まる直前に休符が入るんです。むなしく響く手拍子の音に「やっちゃったねぇ」という感じのいたずらっぽい笑顔を見せながらLibiamo! libiamo ne' lieti caliciと高らかに歌います。さすがに合唱は抜きで観客は手拍子でしたけどここみんなで歌えるくらいにはオペラという文化を当たり前にしていきたいですね。私椿姫は合唱で乗ったのでここ歌えるんですよ。

止まらない拍手にジェスチャーで「もう一曲聞きたい?行っちゃう?」という感じの何かをして何が来るかなと指揮棒が振り下ろされるのを待ちます。Libiamo二回目が来ました。わかるな?休符だからな?と思いながら前奏が終わりまたむなしく響く手拍子。海外のコンサートの映像とか見ても結構そういう感じなのでお約束なんでしょう。また笑いながらこの盃を酌み交わそうと歌い始めます。

笑ったのは最後のほうのアルフレードヴィオレッタの掛け合いのところ。「ほら返事しなきゃ」と指揮者に無茶ぶり。空いている左手で全力で拒否しながら指揮を続ける指揮者。

一緒に行った方と帰り路で少し話したのですが、テノールバリトンってなんでああいう風に暴れる方多いんでしょうね。めちゃくちゃ面白いので続けてほしいんですが、女声とかバスってあんまりそういうイメージがありません。まぁオペラでテノールとかバリトンというと大体女たらしの浮気者陽キャなのでそういうことなんでしょうか。

さて最後に。ロドルフォをやられているようで、機会があればポップのロドルフォのボエーム、聴きに行きたいですね。演奏会形式でもいいから……どこか…… パヴァロッティの再来ステファン・ポップ。とても良い経験となりました。

リカルド・ムーティ指揮 アイーダ 東京文化会館

アイーダ、初めて全部通して聴きました。いやYoutubeのオペラ対訳プロジェクトのやつなら聞いてましたけど。

音の解像度がまず違う。ムーティ指揮のものだと以前第九の音源を聞いたことあったんですが、フレージングというか、ダイナミクスというか。オケに要求する表現がとても豊かだなという印象を受けていました。二幕の凱旋の合唱のところ(超有名な凱旋行進曲はこの一部)とか結構高らかにぱぱーと鳴らすことが多いですし、私も自分で打ち込むならじゃーーーん!!!!!!!とやりそうなんですが、ほかに比べて抑えるところをすごく丁寧に抑えていて、それでも高らかな凱旋という印象は損なわず、これがプロというものなのだなぁと聴いていました。次打ち込みで作るのこれにしようかな。

行こうと決めた時には結構売り切れててそこそこいい席しか残ってなかったですがその場のノリでチケットとってよかったです。

ところで口座の残高が思ったより少ないんですけど……

観てきました

新国立劇場オペラ研修所 修了公演 フランシス・プーランクカルメル会修道女の対話

1794年7月、恐怖政治を推し進めたロベスピエール国民公会に逮捕され処刑される少し前にギロチン刑に処されたコンピエーニュの16修道女殉教者を題材にしたオペラ。当時のフランス教会はこの殉教の少し後にロベスピエールが処刑されて恐怖政治が幕を閉じたことから、この殉教によって恐怖政治の終わりがもたらされたと考えたとか。

コンピエーニュの16修道女殉教者は現時点では福者ですが、2022年に教皇フランシスコによって列聖審査の開始が宣言されたということです。アサルトリリィ界隈から来た方は私が執筆したオリジナルリリwiki(https://w.atwiki.jp/orily/pages/235.html#saintname)に軽く書いてあるのでご存知かもしれませんが、一応サラッと解説。

まず、カトリック教会(プロテスタントなどにおいては聖人崇敬は行われません)では「生存中にキリストの模範に忠実に従い、その教えを完全に実行した人( 尊者・福者・聖人とは? | カトリック中央協議会, access Mar., 4, 2024)」を聖人として崇敬しています。教会がある人を聖人として宣言することはいろいろな意味がありますが、まぁ外の人から見ると名前に「聖」がつく、洗礼名として使える様になるとかがわかりやすいでしょうか。この聖人に至るためにはいくつかのステップがあります。まず、ある人が聖人の列に加えられるかもしれないから調査を始めましょうとなります。この調査はヴァチカンの列聖省が行います。きっかけとしては徳ある行為(マザーテレサコルカタの聖テレサの場合は多分こっちに該当します)があるか、コンピエーニュの16修道女の様に殉教したかになります。前者を「証聖者」、後者を「殉教者」と呼び、少し条件が変わってきます。

さて、列聖省による調査が始まりました。このタイミングで対象となる人は「神のしもべ」と呼ばれるようになります。続いて生き様が福音的であったなら「尊者」にレベルアップ。調査はさらに続きます。証聖者であれば一つの奇跡、殉教者であればそれが殉教であった時点で列福が許され、「福者」へと列せられます(beatification)。日本に関わりのある福者としてはユスト高山右近ペトロ岐部と187人殉教者が有名ですね。共に殉教者です。日本における教会の歴史は殉教者の歴史とも言われ、我々日本カトリックの信仰は彼ら彼女らの血の上にあるとまで言われたりします。江戸幕府による迫害や、明治新政府による大弾圧浦上四番崩れを始め全国で多くの殉教者を出しました。棄教したものも少なくなく、踏み絵を題材にした遠藤周作の「沈黙」なども有名です。私まだ読んだことないんですけど。

列福の時のとは異なる少なくとも一つの奇跡をきっかけに、列聖省は列聖審査を始めます。コンピエーニュの16修道女殉教者は今この段階ということですね。それが奇跡であると認められ、聖人に相応しいと判断されると列聖(canonization)され、聖人の列へと加わります。日本に関係する聖人にはカトリックを伝道した聖フランシスコ・ザビエル、日本で活動し帰国後妻子を持つある軍曹の身代わりとなって命を落とした聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父、日本史の教科書では長崎二十六聖人として記述される豊臣秀吉の命によって刑死した日本26聖人殉教者、江戸幕府によって処刑された聖トマス西と15殉教者などがおられます。

さて、あんまり公教要理の話ばかりしていてもアレなのでオペラの感想です。

プーランクといえば私はト長調ミサで、しばしばLPを回して聞いています。そのこともあって、聞いたことある旋律だなぁということもありました。音楽の表面を撫でさすっているレベルの私だと年代を知っていてもグレゴリオ聖歌の少し後っぽいなぁという印象を受けてしまいますが、詳しい人ならもうちょっと音楽に立ち入った感想が出てくるのでしょう。さらに前の二重導音終始とかゴツくて好き。

やはり宗教曲だなという印象を強く受け、私が普段関わっているモーツァルトヴェルディプッチーニといったオペラとは一線を画す作品でした。フランスオペラは私はカルメン、エトワールくらいしか関わったことないのですが、カルメル会修道女の対話はフランスオペラ最高傑作の一つと断言してもいい、というより私が一番好きなのを上げなさいと言われたら即座にあげるくらいには素晴らしい音楽でした。リブレットも世俗と聖、生と死の間の葛藤とその解決を巧みに描ききっていて、まさしく愛の物語という感想がカーテンコールの時に出てきました。

舞台面や演出。中劇場は初めてだったのですが回転する舞台をうまく使うなぁと思いつつあの速度で動くものの上にあの壁怖、プロすごとなりました。三幕で布引っ張るところとか悲鳴出しかけた。そうなんですよ。壁とか間仕切りくらいに思ってたんですよ。プログラムノートにもそう書いてあったし。フィナーレでああなるとはおもわないじゃん。しかも音に合わせてあの布の演出やるとは思わないじゃん。エグい演出するなぁと思いました。素晴らしい演出だけど心へのダメージがでかい。観た方にはこれで通じると思うんですが、最後奥で横並びになってるの一番怖かった。

司祭の最後のミサで置かれる聖体顕示台、聖杯、そして香炉。香炉の使い方間違ってね?とは思いましたがあぁこういう感じのミサ預かったことある……となりました。両形態の拝領したのかな。あと7月は年間に該当するのでローマ・ミサ典礼書の総則346条の規定により本来であれば緑色のストラをかけるはずです。司祭様が首からかけてた細長い布ですね。しかし司祭様は紫色のストラを使われていました。これは347条の方なのかなと思いますが、回心や悲しみを示し、死者の典礼でも使われる紫というのが示唆的でした。

一応サラッと触れておくと、あのストラには4色あります(本当は5色ですが今黒ほとんど使われないはず)。

  1. 白 神の栄光。簡単にいうとおめでたい時に使います。クリスマス後とか復活祭の後、結婚式や洗礼式。
  2. 赤 炎と血。殉教や受難に関わる日に使います。主イエスが十字架にかけられた聖金曜日とか殉教者の祝日。
  3. 緑 堅実さ、忍耐。年間という特にこれといったことがない日に使う。
  4. 紫 回心、悲しみ。クリスマス前、復活祭前、死者の典礼に使う。

大体例年6月ごろにペンテコステ(聖霊降臨)があり、その日はこの規定だと赤色ですがその前後は年間になるので本来は緑。でも司祭様は紫のストラを使われた。

あ、役人が普通に祭具を強奪して祭壇の上に乗ってましたがあれ現代日本でやると多分礼拝所不敬罪になるのでやらないでくださいね。宗教関係は判例が少なかったりするらしいので法学徒が発狂する未来が見えます。牧会活動事件とか、貝塚教会問題とか……

どうしても裏方で関わってる人なので大道具とかいろいろなオペレーションの方が目に入ってしまう人ですが、久々に何かを観て泣きそうになりました。ちょっと色々流行ってるので現地で発声はできませんでしたが、拍手とBraviを送らせていただいて筆をおきます。

文化強化月間(4)

文化強化月間

粧っていた山も眠りにつき始める今日この頃、日没はどんどんと早くなり、夜は長さを増しております。

ということで、ちょうど知己の関わる舞台が続くのでせっかくだからそれ以外も加えて色々見てインプットしようという月間でした。

11月最終週から今日までのおよそ20日間で4つの舞台を見てまいりました。その感想をつらつらと書いていこうと思います。

(ここまでコピペテンプレ)

ミュージカルサークルS&D 「おどり村と妖の森」

オペラ、オペラ、劇とお届けした文化強化月間、最後を飾るのはミュージカルです。

ミュージカルという物自体観るのが相当久しぶりで、記憶が正しければ小学生か中学生で劇団四季の人間になりたがった猫でしたっけ、あれ観たのが最後のような気がします。宝塚ならちょくちょく観てたのですが、なんかあれはミュージカルと呼んでいいんだろうか、よくわからん。

さて、千秋楽こそ終わっていますが、今後も公演で使われるかもですし、あまり中身に直接触れることはしないでおきましょう。

とある村に 神を宿す巫女の血を引く娘が生まれる。15歳のお祭りの日、その体に神を宿すべく舞の稽古を重ね…遂にその年がやってきた。彼女は祭り当日〈妖の森〉へ行き、神を宿す儀式をしなくてはならない。踏み入るのを禁じられ、妖が住むといわれている森で…。  巫女の娘・ウズメは舞の稽古で出会った天真爛漫な少女・ヒコと、村はずれに住む少年・イズナと意気投合し、彼らは揃って〈妖の森〉へ足を踏み入れる……。 人間も、妖も、神さまだって、みんな歌って踊りだす。 日本の歌と踊りのはじまりを考える、国産ファンタジー・ミュージカル。

(カンフェティ公式ページ、公演内容。アクセス: 11, Dec., 2023)

アマノ役の方からお誘いいただいて観てきたわけなんですが。「踊り」に巫女の「ウズメ」ときたらまぁ思い浮かべるものは一つでしょう。巫女による神降ろし、禁足地、"村はずれ"というわけでまぁそういうストーリーになるのかなと駅に降り立ちました。

さて、ミュージカルサークルS&Dはサークルという名の通り、学生さんたちによるミュージカルの実演芸術団体になります。私は普段クラシック音楽系の裏方にいるのですが、正直レベルの高さに驚きました。最後のスタッフロールを観る限り、安全上問題のない所に関しては裏方も学生さんが主体となっていそう。音楽がミュージカルでは録音であることをつい最近知ったのですがあのキューや、大道具の移動、照明、大変だったと思います。というかあの音楽のキューだし私絶対ミスるからやりたくないです。近い分野の実演芸術で裏方をやっているものとして、まずはそうした演出制作のスタッフの皆さん、当日受付などで案内をしていた皆さんに惜しみない拍手を送ります。

ミュージカルそのものについて。

願わくば此れを語りて平地人を戦慄せしめよ

まずこれが思い浮かびましたね。唯一の違いは柳田がこの件で蒐集したもののほとんどが口伝であることくらいでしょうか。裏方やっててそういう目でつい舞台を観てしまうのですが、はじめの語りが終わり、中程にたれていた幕が一気に開くとまぁ奥行きがかなりある。間口と同じくらいはありそうで、色々工夫ができる分、難しい箱と感じました。ですが、場面に合わせて巧みにその位置と様相を変えるあの壁は良かったですね。スタッフと時間とお金と保管場所が潤沢にあるならもっと色々できますがそれができる箱は日本だと新国とかくらいでしょう。

巫女の少女ウズメによる舞の稽古がはじまり、本格的におどり村と妖の森という伝承が語られていきます。流れとしては里神楽と呼ばれる系統に属するのでしょうか。ただ、巫女や舞の師匠であるアマノがある程度しっかりした着物を身につける一方で村の子どもたちが木綿のような着物をまとっているということからはある程度の社会階層が伺えます。男女の着物、丈以外にも色々違うところがありますが、ちくちくとリメイクされたとブログの方で拝見しました。あれだけ動くからには着付けもしっかりしとかないとでしょうし、衣装班の苦労が忍ばれます。

物語の中身に最低限しか触れない縛りで書くとなかなか苦労しますが、1幕が終わった頃にあれ?と一つの違和感を覚えます。村人と妖で男女比が明らかに異なるような気がする。パンフレットに地図があったので見てみると妖の森の奥には山がある。大きく異なる習俗、厳密に定められているらしい"境界"、そして村境とイズナの家の位置関係。一読者の解釈にとどまりますが、本当に日本における"おどり"の初期段階と言っていいようです。

日本最古の踊りといえばそう、日本書紀に記述される天の岩戸隠れにおけるアメノウズメノミコトによる舞です。天照大神が隠れた岩戸の前にある木に鏡を釣り、にぎやかな音楽に合わせてアメノウズメノミコトが踊って大神を岩戸からおびき出したあれですね。その時天照大神の御姿を写した鏡がヤタノカガミとして伝わります。

そしてこの神話で登場する天に坐す天津神と、その後の神武東征伝承を始めとする神話伝承で調伏される土着の国津神やそれを崇める末路わぬ民。稀人伝承というのは洋の東西を問わずしばしば見られる伝承ですが、こうした民話の骨格をもとにきれいに現代を生きる私達が受け入れやすいミュージカルに仕立てたと言った所なのでしょうか。

ちょっとここから内容にも触れます。配信等で見たい方はブラウザバック推奨

村の名前の五十鈴といえば奈良県にある芸事の神として有名な弁天様を祀る天河大辨財天社です。この五十鈴はアメノウズメノミコトが舞ったときに使ったとされるものと同様のものと伝えられています。 雅楽でもしばしば鳴らされ、神聖なものを表す印としても使いやすい鈴ですが、実は西洋のキリスト教でも鈴みたいなものが使われます。パンとワインがキリストの御体と御血にかわるとき(聖変化)に鳴らされます。卑近な例ではあれも神聖とまでは行かないですけど特別ななにかの印になるんでしょうか、「上様の、おなぁり〜」ってやつ。

ウズメの声の出し方でも十二分にわかるものでしたがあの鈴の音はわかりやすい象徴でしたね。いがみ合うまでは行かずとも隣に、すぐ近くに住まいながら交渉を断っていた人と妖がおどりという儀式を通して和解し、それまでの過ちや、過去が一度リセットされます。ある意味、古いものがすべて流されて新しくなったみたいなことなのかもしれません。

そもそも村はずれで捨て置かれている兄弟が祭りだからと呼ばれていることがその祭りの特別性を物語っています。村八分とはある2つの時を除いて、入会集団であるムラから追放する措置を指しました。その2つのときとは、家のみならず生存に必要な実りをもたらす森にあだなす火事と、病やケガレなどの関わる葬式です。祭りには本来参加できないはずなのです。大人たちの考えは中盤にかけて明らかになりましたが、そういうことでした。

最後にはすべてが解決して村に伝わる踊りの謂れとして昇華されます。しかし、はじめと違ってそれを語る子孫の姿はなく、利き手であったはずの旅人の独白で幕は閉じられます。「書かれなかったことはなかった」と言った老博士は粘土板に押しつぶされて圧死しました。記録されることは、記録すべきとされたことであることがほとんどです。数年前、江戸時代の習俗についてかんたんに調べる機会がありましたが、書かれたこととあったことは簡単にイコールでは結べません。もしかすると、水の祟というのは似たような大きな事件の隠喩かもしれないし、逆にこの記録は洪水の記録なのかもしれない。観客であり四枚目の壁の向こうから眺める私達はそういうことを考えることができます。それが作者の想定であろうとなかろうと。

ともあれ、こうした解釈の余地を持つ作品はいいものです。自分勝手な憶測の域こそ出ませんが、少なくともあの音楽と踊から何かを受け取れたことだけは確かです。この作品を生み出した方々、そして舞台の上でその世界を見事に演じ切られた演者の皆様にBraviと拍手を送って感想とさせていただきます。

鐘花文庫拝

文化強化月間(3)

文化強化月間

粧っていた山も眠りにつき始める今日この頃、日没はどんどんと早くなり、夜は長さを増しております。

ということで、ちょうど知己の関わる舞台が続くのでせっかくだからそれ以外も加えて色々見てインプットしようという月間でした。

11月最終週から今日までのおよそ20日間で4つの舞台を見てまいりました。その感想をつらつらと書いていこうと思います。

(ここまでコピペテンプレ)

おと小「ミキアカシ」

千秋楽は終わっていますが、ガッツリ内容に言及するので、配信等でみたい方はブラウザバック推奨。直下はしばらく公演内容の引用なのでご安心を。

「ミキくんが殺されたって本当?」

「ミキくんは死んだんだよ」

「……ミキくんは亡くなってしまったんですね」

「アカシが死んだの……?」

「死んだよ。ミキアカシ」

「……死んだ?」

「アカシくんが死んだ」

「俺はミキの死体、見たぞ」

「ミキくん死んじゃったの?」

「アカシが死んだなんて嘘だ」

「ミキアカシは死んだよ」

(カンフェティページ https://www.confetti-web.com/detail.php?tid=75668& 、公演内容より一部抜粋。アクセス 11, Dec., 2023)

ミキアカシの死によって始まる、90分ほどの学園もの(?)。

こちらも小規模劇場でまぁ80くらいでしょうか。教室を模したのか、いわゆる小学校の机と椅子(あれ、今の小中学校ではデザイン違うもの多いらしいですよ。)が奥に並べられ、お習字が5つ並びます。

もうね、嫌な予感が止まらないんです。

  1. 耳を掩いて鐘を盗む
  2. 歳月人を待たず
  3. 希望の朝
  4. 疑わずは罰せず
  5. 李下に冠を正さず

1は、その音が鳴るのが余人に聞こえぬよう、自分の耳を塞いで鐘を盗むということから、悪事に手を染めながらそれを考えないようにするとかそういう感じ。2は文字通り時間は人のことなど待たないで過ぎ去ってしまう。だから、勉学に励みなさいとか、思い切って行動しなさい。3、4を飛ばして5は有名ですね。しばしば瓜田に履を納れずとセットにして疑われるようなことをしないというような感じ。すももの木の下で冠を直したら、盗んだ実を隠したと思われましょう、瓜の畑で靴を履き直すと、瓜を盗んだと言われましょう。

もうこの段階でふぇぇとなっているのですが、つづいて4。通常はこれ「疑わしきは罰せず」という法学の原則を言います。もとはin dubio pro reoで直訳すると「疑わしい時は被告人の利益に」とかになりますね(cf. 刑事訴訟法336条、白鳥決定)。はい。否定が多い。もうこれ絶対本当の意味での解決しないじゃん……

そして異彩を放つ「希望の朝」。

……それ来ます?

中身は全く違いますし、学校がテーマくらいしか似てるところないんですが、六番目の小夜子とか思い出しました。ミキアカシの死を追いかけるクラスメイト、部活仲間。情報を与えて彼ら彼女らを動かす情報屋。大人と子供、最後まで他者とほとんど関わらないあの人。

ミステリーにおける謎解きはしばしば3つに分類されます。まぁ大体殺人を想定してる気がするのでその感じで言うと、

  1. どうやって殺したのか How done it
  2. 誰が殺したのか Who done it
  3. なぜ殺したのか Why done it

ミキアカシの死、この全ては解き明かされます。音響で、台詞で、そして演技でもって。普通のミステリーだと「でもーーを救えなかった」「簡単なすれ違いだった」そういう後味が残ることこそあれど、普通はこれで全てが解き明かされるんです。しかし、犯人が舞台から降りたあと、クラスメイトの少女は気が付きます。いや、気がついてしまうと言った方がいいのかもしれません。消えた死体はいったい何処に。

ごくごく一部の登場人物しかその存在を知らず、劇中でもほとんど登場しないあの人。ある意味犯人以上に恐ろしい印象を受けるあの人がその答えを観客に叩きつけて舞台は幕を閉じます。そして閉じゆく影で数少ない全てを知っていたあの子が繰り返す。

忘れちゃぁ、いけないよ。この街には殺人鬼がいるんだから。

(表記、台本参照してないのでちがいそう)

ところで皆さんは完全犯罪の仕方をご存知でしょうか。よく言われることですが、"死体が見つからなければ殺人事件にはなりません"。そうなんです。事件は発覚しなければ事件でない。疑われなければ罰されることはないんです。願わくば、行方不明者の情報がまた出ないことを。

はい。で、感想というかオタクが発狂するんですが、情報屋ちゃんいいですよね。コミュ障拗らせてる感じとか、最後駆け込んできた時最高に可愛かった。情報を提示する時って、文章だと一人称で語り手に真実を語らせる(ここで信頼できない語り手とか出てきますね。叙述ものでよく使うやつ)か、三人称の神の視点で事実を語るかなんですが、演劇だと基本台詞なので信頼できない語り手である可能性を排除し切れません。

でも情報屋ちゃんは「嘘をつかない」と宣言しました。いい子じゃん。現実的には「わたしうそつかないもん!」なんて言ったところで本当に嘘をつかない人はおそらくいないわけですが、情報屋ちゃんがそう言ってるんだから本当のことしか言わないんですよ。だって情報屋ちゃんがそういってるんだもん。

姉の所業を知りながら隠した。通報の義務を怠ったわけですが、おそらく大きな罪には問われないでしょう。それでも自分の耳を塞いで、必死に友人を探す人たちに背を向けた。このことは消せない十字架となって彼女の上に残り続けるのかもしれません。それでも一歩を踏み出した彼女の行く末に、どうか溢れんばかりの祝福と幸福を。

多分どなたが演じていてもある程度情報屋ちゃんは刺さったと思うのですが、秋山さんの低音と早口いい……ということで限界と化しました。アフタートークで秋山さんがなっていたみたいに。よくある泰然としてたり飄々としてたりする情報屋ではなく、他者との間に必死に壁を作って、愛する姉の持つ鐘の音が聞こえないように閉じこもる年相応の学生。コミカルなシーンも笑えてよかったのですが、体操座りして耳を塞ぐ情報屋ちゃんを幻視することもあって秋山さんの情報屋、とてもよかったです。

皆さん本当によかったのですが、加えて特に言及したいのが警官役の豆咲さん。普通の「大人」とはまた違う「国家権力」に属する本来は、理想的には最も信頼できるはずの大人をよく演じていてすごいなぁとアフタートークまで聞いていたらなんかこれが舞台2回目とのことで。はい。ぷろってすごいなぁ。6回くらい乗ってるけどあんなんできんわ。

あの街の日常は続くでしょう。友を、隣人を、恋人を失おうと、流れる時を止めることはできません。それでもこのお話はあそこで終わります。多分、あそこで終わるのが一番きれいです。私も文章書く人間ですが、あそこまでの澱んだ闇はなかなか書けませんね。人が死んじゃうお話とか怖いお話苦手なので。

情報屋ちゃんの良さとかをさらに書き続けてもいいのですが、それはまたの機会に。こういう演劇、なかなか見る機会がなかったのですがとてもいい経験ができました。末筆ですが、完全暗転での出はけや、シビアなタイミングが要求されていそうだった音響照明をやられていたスタッフの皆様お疲れ様でした。某所で舞台芸術に裏方として関わっているものとして大変勉強になりました。また何処かの箱でお会いする日を楽しみに。

鐘花文庫拝

文化強化月間(2)

文化強化月間

粧っていた山も眠りにつき始める今日この頃、日没はどんどんと早くなり、夜は長さを増しております。

ということで、ちょうど知己の関わる舞台が続くのでせっかくだからそれ以外も加えて色々見てインプットしようという月間でした。

11月最終週から今日までのおよそ20日間で4つの舞台を見てまいりました。その感想をつらつらと書いていこうと思います。

(ここまでコピペテンプレ)

Novanta Quattro 《修道女アンジェリカ》とプロローグ

オペラ2つ目。プッチーニによるオペラですね。プッチーニといえばやっぱりボエームとかが有名所なんでしょうか。あれ最後の音楽が消えて「なぜそんなふうに僕を見るんだ」というところだいすき。

まぁこちらもストーリーとしてはネタバレも何もない古典なので、つらつらと感想を。

Novanta Quattroさんはよくオペラの前に「プロローグ」を追加します。近い題材の童話であったり、あったかもしれない短いストーリーであったり。国語の授業とかでやった記憶が蘇りますね、名作の続きを書いてみよう。自分で書いた記憶を遡るとまぁ見事に蛇足です。多分足どころか手としっぽが生えてます。今書いても手足は生えてるでしょう。 こういう書き足しはそのリスクがどうしてもあるわけです。完璧に描かれた1セント硬貨でしたっけ、あれとは少しずれますが。ですが、以前からプロローグと本編がきれいにまとまっていてうまいなぁと感嘆しています。

開けてはならぬ戸を開けた娘と、許されない子を生んだ母。対比としてきれいでした。まぁ、娘も長じて子を生んだあとに子を取り去られてしまうのは同じではありますが、赦しが得られたのかは逆なのかなぁと思いながら見ていました。罪を告白して赦され、子を取り戻した娘。子のところへ行かんと毒杯を煽った母。アンジェリカの見た聖母マリアは燃え落ちたあとの無残なものだったのでしょうか、それとも蛇を踏みつけて死を迎えるアンジェリカのために祈っていたのでしょうか。歌詞と演出からすると後者のようですが。

当時の修道院は今のものとは大きく印象が異なるものでした。ここに来る読者さんには悪役令嬢ものの「修道院送り」のイメージがわかりやすいでしょうか。いわば島流しではあるのですが、それと同時にある種の避難所としての性質もありました。例えば門扉を固く閉ざして修道生活を送る修道院が実際にもあるのですが、外界との接触が極めて少なくなります。観想修道会と言われるタイプになりますが、様々な事情で人と会えないものの受け皿として機能しうるわけです。ちなみに有名なフランシスコザビエルとかの所属した宣教活動とかばりばりやる系の修道会を活動修道会と言ったりします。お寺さんにも、厳しい修行をするところと、広く何かを伝えるところとみたいに差がありますよね。そんなイメージでいいと思います。

魔女裁判や、禁書目録と古い知識を破壊したイメージが強い教会ですが、同時に修道院は薬草園や図書室を備え、古い知識の保存に一役買っていました。修道院製のリキュールとかありますしね、カンパリとかそうだった気がする。アンジェリカも薬草の知識を買われていたようで、作中で蜂に刺された修道女のために薬草をとって救護の修道女に教えています。君が治療したほうがはやいんでない???

最期にはその知識で作った毒を煽ったわけですが、コップが床に落ちて響いたとき、彼女はどう聞いたんでしょう。沈黙の規則もありそうな修道院でしたが、そこに響く音といえば祈りのときに鳴る鐘くらいなものでしょうか。あとはこっそり作業中にしてるおしゃべり。あの最期の音がΕὐαγγέλιονであることを祈ります。

また、箱が小さなもので幕がなく、照明も大規模なものは組めません。どうやって場面を転換するのだろうと思っていたら、なるほどと思わず手を打ちそうになりました。プロジェクションマッピング、そういうのもあるのか。あそこ構造的に大きなもののではけほぼ無理ですからね。その点映像ならプロジェクターと映像さえあればいい。ミスったときが怖すぎてオペレーションしたくないですけど。PC……発表中……フリーズ……うっあたまが。

文化強化月間(1)

文化強化月間

粧っていた山も眠りにつき始める今日この頃、日没はどんどんと早くなり、夜は長さを増しております。

ということで、ちょうど知己の関わる舞台が続くのでせっかくだからそれ以外も加えて色々見てインプットしようという月間でした。

11月最終週から今日までのおよそ20日間で4つの舞台を見てまいりました。その感想をつらつらと書いていこうと思います。

新国立劇場シモン・ボッカネグラ

最初を飾るのはこちらのオペラ。椿姫やアイーダで有名なヴェルディの作品です。恥ずかしながら私もタイトルだけは知っていたものの、聞いたことはありませんでした。

イタリアはジェノヴァの新たな総督シモン・ボッカネグラをめぐる政治と愛憎劇とも言うんでしょうか。200年も前の作品にネタバレもなにもないので、あらすじは調べてください。

まずはプロローグ。そう、よくあるオペラは普通「前奏曲」で始まります。カルメンフィガロの結婚、こうもりの前奏曲はCMなどで耳にしたことがあるのではないでしょうか。しかし、シモン・ボッカネグラはプロローグで始まります。いきなり歌が入るわけですね。

シモン・ボッカネグラが総督になった経緯、彼の愛した人の死、許されなかった恋、そして生き別れることとなった娘。そういった背景が次々と歌われます。

既に写真や評が多く公開されていますが、大道具としての壁をあまり使わずに吊り物の大きな板で空間を区切っていました。シンプルだからこその難しさもあるのですが、陳腐になることもなく、空間をうまく切り取っている印象を受けました。

ボッカネグラ。直訳すると「黒い口」になるのですが、黒い衣装と赤い衣装、黒色の壁と赤色の壁の対比がきれいでしたね。上空につられた逆さの火口からは噴煙が垂れ下がり、どこか不穏な空気を舞台面に垂れ込めさせます。

政治的な確執と、登場人物たちの愛。アメーリアがあのあと幸せに暮らせたかは定かではありませんが、フィエスコ、シモンととても幸せに暮らしたとは言えない世代に続く次代の総督夫人であるならば……

しかし、どうあってもシモンと叫ぶ民衆の側でしかいられない私の言葉をこれ以上重ねたところで野暮というものでしょう。既に公演は終わってしまっていますが、また別の演出で見てみたいと思う作品でした。

バトンの上下操作きっっっっつと思ったり、カーテンコールで緞帳の緊急停止を見たりと舞台芸術としても勉強になるところが多くありました。あのキュー出し絶対ミスるからやりたくないなぁ

0から始めるAlphaFold2(1)

経緯

kanehanabunko.hatenablog.com

Win11Pro環境にUbuntu22.04LTSをデュアルブートでいれる

さて、まずはLinuxをどう入れるかを考えなければいけません。仮想環境、完全に入れ替え、デュアルブート。この辺りが選択肢でしょう。

まず仮想環境ですが、比較的管理が楽で、構築も楽そう(やったことないのでわかりません)な反面、Win11の上でごちゃごちゃすることになる関係でせっかくのスペックを生かしきれません。そんな感じのことがどこかのQiitaエントリに書いてあった気がします。

次、入れ替え。何のためにOSインストール代行でWin11Pro入れてもらったと思ってるんですか。第一他に使いたいものにWinじゃなきゃ動かないとかいう舐めたソフトがあるのでWinを消す選択肢はありません。

というわけでデュアルブートにしていきます。

巷にあるデュアルブートの環境構築ですが、基本的に

  1. SSDやHDDを増設してそこにLinuxを入れる
  2. 外付けディスクにLinuxを入れる

の二択になっています。なので、DドライブをまるまるLinuxに置き換えるやり方なんてものはどこを探してもないわけです。

とりあえずLinuxをインストールする準備を粛々と勧めます。

でぃすとりびゅーしょんですが、大学のPCに入ってて使った経験のあるUbuntuにしました。だってCUIだけとかできないし。最新の安定版が22.04LTSだったので、そのisoイメージを公式からDL、星の数ほどあるUSBをブータブルメディアにするソフトの中からなんちゃらを使ってUbuntu22.04LTSのインストール用USBを作ります。

USBを刺した状態でBIOSに入ってわちゃわちゃすればLinux環境の出来上がりとなります。

Win11なので、回復からBIOSに簡単に入れるようになっているのはありがたいですね。別に再起動した時"To enter BIOS, press F2 or delete"とか出てきたのでそれでやってもいいんですが、気持ち的に。

  1. スタートボタンを右クリック
  2. 「設定」をクリック
  3. 「システム」の中の「回復」をクリック
  4. 「PCの起動をカスタマイズする」の右に出てる「今すぐ再起動」をクリック
  5. 「今すぐ再起動」

でまずマシンが再起動します。未保存の作業があるとここで消えるらしいですが、そういう時にこれをやるひとはいないでしょう。多分。

すると、普段はすぐにログイン画面にいくところ、「オプションの選択」という画面になりました。これは私の備忘録的側面が強いのと、ここに画像アップするのめんどくさいので画像はありません。

トラブルシューティング>詳細オプション>UEFIなんちゃらかんちゃら

と進むと再起動が選択できます。PCが壊れるタイミングは電源のオンオフの時と効いているのでこわいなぁと思いつつ容赦なく電源ユニットをコキ使います。

UEFI、これがBIOSらしいですが、名前変えるのやめてほしいですね。USBから起動してあとはUbuntuのインストールに行きます。

Winを消さないように「UbuntuWindowsとは別にインストール」で進めたのですが、ここで問題発生です。

そう、Ubuntu用にしたかったSSDは既にDドライブとして認識されています。そのため、Ubuntuをいれようとするとパーティションを分けるように指示され、せっかくの4 TBSSDがフルで使えなくなります。

ただでさえAlphaFold2のデータベースで半分以上が消し飛ぶのに、そんな勿体無いことはしたくありません。なんかパーティションわけだとあんまよくないってネットのみんなも言ってたし。

というわけで一度インストールを取りやめて、Win11環境に戻ってきました。

問題は4 TBSSDがDドライブとしてWinに認識されているところ。なので、スタートボタン右クリックからのディスクの管理に行き、今Dドライブとなっている4 TBSSDを選択して「ボリュームの削除」をします。警告は出ますが、まっさらな新品に重要なデータがあるわけもなく、思考停止で続行するとそれまで「D:」とラベル付されていたディスク1のSSDが見事「未割り当て」になりました。

そう、新規ディスクを増設してデュアルブートにする手順を解説する先達等のページで見たあれに。

そこからは消化試合、またBIOSに入って、Ubuntu22.04LTSを開いた4 TBSSD (今度はUbuntuWindowsとは別にインストールを選択すると問答無用で4 TBSSDの方に入れるような画面に行きました)に入れ、無事Ubuntu環境の完成です。

なんかCPU直結?っていうディスクを4 TBの方にしていたからか、勝手にUbuntuが優先で立ち上がるようになっていて起動のたびにUbuntuを開くのかWin11を開くのか選択できるようになりました。さっきのBIOS行けば優先順位を変えられるらしいですがひとまずしなくて良さそうです。

nvidia driverのインストール

こちら(公式ドライバー | NVIDIA)にアクセスして、自分のGPUに対応したドライバが何か調べます。Linuxのところに64bitとaarch64???とかいうやつがありましたが、どっち選んでもバージョン535.146.02だったので気にしないことにします。わからないものは後回し、後回し。

後で必要になるCUDAとの対応調べると、バージョン535は最新のCUDA12.3に対応しているらしく、そこは思考停止最新版でよさそうでした。らくちん。

$ lsmod | grep nouveau

と打っても何も出てこなかったので、巷で言われている「nouveauの無効化」は必要なさそうでした。なんでnouveauっていうんでしょう。新型なのかな。

続いて、よくわからないリポジトリの追加。試しにこれしないでapt-get installしてみたらそんなもんはないって言われたので、見に行くところを増やしたと理解しています。

$ sudo add-apt-repository ppa:graphics-drivers/ppa
$ sudo apt update

公式が535.146.02って言ってるからそれでいいと思うのですが、一応コマンドでも調べておきましょう。

$ ubuntu-drivers devices
$

はい。なにも表示されません。「ubuntu-drivers devices no output」とかで調べてpciバイス(?)の更新すればいいよみたいなのが書いてあったので試してみます。

$ sudo apt update && sudo apt upgrade -y
$ sudo update-pcidevices 
$ ubuntu-drivers devices

== /sys/devices/pci0000:00/0000:00:01.0/0000:01:00.0 ==
modalias : pci:v000010DEd00002782sv0000196Esd000013D6bc03sc00i00
vendor   : NVIDIA Corporation
driver   : nvidia-driver-535-open - distro non-free
driver   : nvidia-driver-525-server - distro non-free
driver   : nvidia-driver-525-open - distro non-free
driver   : nvidia-driver-545 - third-party non-free
driver   : nvidia-driver-535 - distro non-free recommended
driver   : nvidia-driver-525 - distro non-free
driver   : nvidia-driver-535-server-open - distro non-free
driver   : nvidia-driver-545-open - third-party non-free
driver   : nvidia-driver-535-server - distro non-free
driver   : xserver-xorg-video-nouveau - distro free builtin

出てきました。バージョン535もちゃんと入ってますね。recommendedされているのが「open」てついてるのでもついてないやつを入れたほうがいいよみたいな注意を散見しますが、私の場合はdriver : nvidia-driver-535 - distro non-free recommendedだったのでそのまま続行。

さていよいよインストールですが、セキュアブートをオフにする必要があるといろいろなところで言われているのでオフにしてみます。

$ sudo mokutil --disable-validation

ここで8から16桁の一時パスワードを要求されます。後で聞かれるらしいです。実際にはもちろん違うやつを使いましたが、説明のため「abcdefgh」ということにします。

$ sudo reboot

Press any key to perform MOK managementといわれたので適当におっきいスペースキーでも押して続行。メニューが出てくるので「Change Secure Boot state」を選んでセキュアブートを切りにかかります。

Secureというくらいだから本当に本人がやってるのか確認したいんでしょう。「さっきのパスワードのN文字目を入力しろ」と何回か聞かれます。5文字目だったらeですね。

Yes/NoでSecure Bootを切るかどうか聞かれます。どうやら質問が環境によってちょっと変わるらしいので、強い意志を持って切る方を選びましょう。

そのまま「Continue boot」で入ると、Secure Bootが切れている、はず。

ターミナルを開いて

$ sudo apt install nvidia-driver-535

またMOK何ちゃらが必要とか出てパスワードの設定を要求されました。「Your system has UEFI Secure Boot enabled.」切れてないじゃん、Secure Boot。

ま、まぁ同じように設定して、再起動。MOK managementの画面で「Enroll MOK」を選択してパスワード認証すると

$ nvidia-smi

+---------------------------------------------------------------------------------------+
| NVIDIA-SMI 535.129.03             Driver Version: 535.129.03   CUDA Version: 12.2     |
|-----------------------------------------+----------------------+----------------------+
| GPU  Name                 Persistence-M | Bus-Id        Disp.A | Volatile Uncorr. ECC |
| Fan  Temp   Perf          Pwr:Usage/Cap |         Memory-Usage | GPU-Util  Compute M. |
|                                         |                      |               MIG M. |
|=========================================+======================+======================|
|   0  NVIDIA GeForce RTX 4070 Ti     Off | 00000000:01:00.0  On |                  N/A |
|  0%   32C    P8               8W / 285W |    322MiB / 12282MiB |      1%      Default |
|                                         |                      |                  N/A |
+-----------------------------------------+----------------------+----------------------+

が無事通ってドライバのインストールができました。Secure Bootのままでも一応できるみたいですね。(これ結果は実はこのあとのCUDA入れたあとの実行画面です。コピペするの忘れてた)

  1. Secure Bootを切ってからインストール、再起動
  2. Secure Bootのままインストール、再起動時にMOK managementをいじる

のどっちかで行けそうです。

CUDA toolkit 12.3を入れよう

これ(1. CUDA 12.3 Update 1 Release Notes — Release Notes 12.3 documentation)のTable2を見ると、Linux x86_64 Driver Version >=525.60.13であればCUDA 12.3.xに対応しているみたいなので、最新版のCUDA Toolkit 12.3 Update 1 をインストールします。

コマンドライン操作でインストールできるらしいので、そのコマンドを公式(下のサイト)に教わりに行きます。

developer.nvidia.com

  • Operating System: Linux
  • Architecture: x86_64
  • Distribution: Ubuntu
  • Version: 22.04
  • Installer Type: deb(local)

と選択。最後のタイプはなんか違いあるみたいですけどこれでいいかぁと選びました。runfileは選ばない方がいいという噂。deb(local)とdeb(network)はダウンロードのタイミングが違うだけっぽいですね。

$ wget https://developer.download.nvidia.com/compute/cuda/repos/ubuntu2204/x86_64/cuda-ubuntu2204.pin
$ sudo mv cuda-ubuntu2204.pin /etc/apt/preferences.d/cuda-repository-pin-600
$ wget https://developer.download.nvidia.com/compute/cuda/12.3.1/local_installers/cuda-repo-ubuntu2204-12-3-local_12.3.1-545.23.08-1_amd64.deb
$ sudo dpkg -i cuda-repo-ubuntu2204-12-3-local_12.3.1-545.23.08-1_amd64.deb
$ sudo cp /var/cuda-repo-ubuntu2204-12-3-local/cuda-*-keyring.gpg /usr/share/keyrings/
$ sudo apt-get update
$ sudo apt-get -y install cuda-toolkit-12-3

wgetが地味に時間かかりましたが、20分足らずで終了。ここで

$ nvcc -V

をするとバージョン情報が出るはずなのですが、出ない。あれ?とおもってnvccがそもそもいるかを聞いてみると、

$ which nvcc
$ 

これはパスが通ってないっぽいですね。

バージョンによって場所が違うとかあり得るので適当に探すと、

export PATH=/usr/local/cuda-11.8/bin${PATH:+:${PATH}}
export LD_LIBRARY_PATH=/usr/local/cuda-11.8/lib64${LD_LIBRARY_PATH:+:${LD_LIBRARY_PATH}}

をbashrcに入れるという記述を発見。/usr/local/を確認すると、cuda、cuda-12、cuda-12.3がいました。中身は同じっぽかったのでバージョンごとになんかしたい時はバージョン付きの方参照するのかなと思いながら、/usr/local/cuda-11.8/を/usr/local/cuda-12.3/に変えて打ち込んでから

$ source ~/.bashrc

これrcでよかったんですかね。bash_profileとかとの区別あんまついてないんですが。

まぁともあれ

$ nvcc -V
nvcc: NVIDIA (R) Cuda compiler driver
Copyright (c) 2005-2023 NVIDIA Corporation
Built on Fri_Nov__3_17:16:49_PDT_2023
Cuda compilation tools, release 12.3, V12.3.103
Build cuda_12.3.r12.3/compiler.33492891_0

と無事使えそうなのでよしとしましょう。

次回は2.5 TBのデータベースを構築していきます。